地蔵菩薩

法話

ご供養ってなんだろう

皆さん、ご供養と聞いてどのような風景が目に浮かびますか。

お仏壇にお供え物を供えて手を合わせお経をお唱えする、そのような姿ではないでしょうか。では、その時どのような心でいますか?

 

ご供養という言葉は、もともとお釈迦様がいらっしゃったインドの古い言葉で「尊敬」「敬い」を意味していました。

 

私のちょっと恥ずかしい思い出話です

5歳位のころでしょうか、毎日お仏壇の前で祖母と一緒に手を合わせてお経をお唱えしていました。信心深い、なるべくしてお坊さんになったな、と感心する方もいらっしゃるかもしれませんが、お経の後にお供え物のお菓子をもらえるので、それが目当てだったのです。

祖母がお仏壇の前で手を合わせています。私はそれが何かお願い事をしているように見えましたので、「仏さまに何をお願いしたの?」と聞いてみました。「みんなが元気にすごせるようにお願いしたんだよ」と祖母は答えました。それを聞いて「ぼくもおねがいするー」といって、こんなおじさんが言っても可愛くないですが、5歳くらいの男の子がおばあちゃんとお仏壇の前で一緒に手を合わせる光景はほのぼのとしますね。

 ですが人間というものは成長します。これが全ていい方向に成長するわけではないのです。

中学生の頃、今度は私が「何をお祈りしたの」と聞かれました。「ご先祖様が安らかにおやすみ下さるように」これで終わればいい子のままなのですが続けてこう答えました「お金持ちにさせて下さい」ふざけていたのか本気だったのか今となってはわかりませんが、とんでもないことを言っていたなと思います。

 

皆さんお仏壇やお墓の前、お寺でこんなこと考えたことはありませんか。
「ご供養をちゃんとしたら、何か良いことがあるんじゃないか」
「ご供養をしなかったら、何か悪いことがおきるんじゃないか」
これも同じことですね、こちらが何かしてあげたら、相手も何かしてくれるはずだ。見返りをくれるはずだ。そんな現代的なギブアンドテイクな心ですね。

ですが、ここに本当に相手を敬う心があるのでしょうか。ご供養の心はあるのでしょうか。

 

供養ってなんだろう?
出家してある修行道場で修行をさせていただいた時、あるご老師様からヒントを頂戴しました。

 ある日、ご本尊様にお花をお供えしていましたら、ご老師様はこう諭されました。

「仏様へご供養している時、実は自分にご供養しているのだよ。だからおろそかにしてはなりません」

「自分に供養する」この意味がわかりますか?私にはよくわかりませんでした。「さすがいいことをおっしゃる」と漠然とした感想しかありませんでした。ですが実は「自分に供養する」これこそが大切な意味を持っていたのです。そのことを私はある方のご供養の姿から、学ばせていただきました。

 あるおじいさんが亡くなりました。私の地方ではお葬式の後、49日の忌明けまで七日ごとにご自宅でお経をお唱えする七日参りという風習があります。おばあさんの家にも毎週お伺いしました。おばあさんは、「こういうことは初めてで、どうやってご供養していいのかわからないの」と言っていましたが、毎週毎週いつもお供えのお菓子は新しいもので、お花も生き生きとしていました。忌明け法事のお供え物について相談されました。私は「この辺のやり方としては、お供え物としてお菓子やフルーツ、ご飯やお味噌汁、あとお餅をお供えする方もいます。お花は白のものでなくても結構です。それとお茶をお供えしてくださいね。」と、ごく当たり前の回答をしました。


さて忌明け法事当日、アドバイス通りのお供えが並ぶ中、お茶と一緒に一杯のコーヒーがお供えしてありました。それを見て私は思わず微笑んでしまいました。7日参りの間、毎週必ずお供えしてあったのがこのコーヒーだったのです。


 50年以上前、20歳そこそこの若者が九州から愛知県に仕事を求めてやってきました。若者の仕事は大工さん。その若い大工さんは、夏祭りの夜盆踊りを踊っているお嬢さんに声をかけました。それが馴れ初め。やがて二人は夫婦となりました。若者は腕の良く、温厚で後輩の面倒見の良い大工さんになりました。若者がおじさんになっても、仕事を引退しても変わることのないことがありました。それはコーヒー。朝起きてコーヒー、食後のコーヒー、10時にコーヒー、昼食のコーヒー、おやつのコーヒー、、、。二人でいるときは奥さんがコーヒーを淹れて一緒にコーヒータイムを楽しんでいました。そんな二人はおじいさんとおばあさんになっても、二人一緒にコーヒーを飲んでいました。そんな二人にも別れのときがやってきました。おばあさんはおじいさんがいなくなっても毎日いつもどおりの時間にコーヒーを淹れてお供えしています。お婆さんは言いました


「おじいさんのお好きなコーヒーをお供えすると、おじいさんがここにいて、おいしそうに飲んでいるのがわかるの。それでね、私もいつも一緒に飲んでいるつもりになるの。ありがとうおじいさん。私はいつまで生きられるかわからないけど、それまでおじいさんに何をしてあげられるかって、これくらいなの。いつもの時間通りにコーヒーを淹れることしかできないけど、なまけてしまってはおじいさんに申し訳ないの。ちゃあんと生きているよっていえなくなっちゃうでしょ」

 

思いました。コーヒーをお供えすることでおばあさんは今生きてる、いや今でもおじいさんよって生かされていることを感じ取っているんだなあと。

おばあさんは「何もしてあげられない」と言っていましたが、とんでもありません。毎日三度の食事、2回のおやつ、同じ時間にコーヒーをお供えする。それがどれだけ大変なことか。一度同じことをしてみて下さい。そうそう続くものではありません。それだけのことをして、おばあさんはおじいさんに何も求めてはいないのです。おじいさんに「ちゃあんと生きている」それを言いたいだけなのです。


 今でもおばあさんはおじいさんの側で暮らし、おじいさんのこれまでと変わらない幸せを祈り、おじいさんが生きていたときと変わらない自分の生命を感じているのです。

私はあの老師の言葉を思い出しました。「自分への供養」とはこのおばあさんの姿ではないか。

そして曹洞宗の両祖様(曹洞宗を日本に伝えられた高祖道元禅師と曹洞宗を日本中に広められた太祖瑩山禅師)のお言葉を知った時「自分への供養」の意味がわかったのです。

昔むかしある方が瑩山禅師に尋ねました。

「仏教では功徳を積むことを修行としています。皆亡くなった父母のためにお供えをしてご供養していますが、お供え物が減ることはありません。これはどうしてですか。」

瑩山禅師はお答えになられました。

「仏様にご供養のまごころが通じてもお供え物は減りません。お供え物が無くなるのであれば、お供え物と共に消えてしまう幻のようなご供養だったということです。本当のご供養は、損得を勘定せず欲やこだわりを離れ、自分と相手とを区別しない姿にあります。このご供養は仏様が受け取られてもその痕跡もなく減ることもありません。」

 

そして道元禅師はご供養の意味についてこうお示しになられています。

「仏様へのご供養とは、限りある自分の生命を無駄にせず生きることなのです。仏様はこれが欲しいとかあれをお供えしなさいなどという欲は持たれていません。例え金銀や香り高いお香、きれいなお花であっても仏様は自ら求められることはありません。そうであっても仏様がそれらを受け取られるのは、私達に正しく生きようとする思いを強く持ち続けさせようとされる大きな慈悲のお心をお持ちだからです。」

 


両祖様のお言葉から、私はご供養の心の意味をこのように理解しました。

ご供養の心とは、大切な方に感謝し見返りを求めず、自分のことのようにその方の幸せを願い続ける心。

そして、自分が残されたこの生命を精一杯生きる、大切な方が喜ぶような生き方をしようとする心なのです。

 

その心を目に見える形として自分自身で確認する。それがお供え物なのです。

古くなったお供え物を新しくかえることは、忘れがちなこの心を思い出し保ち続けることなのです

ご供養のもともとの意味は敬うことでしたね。

ご供養とは相手を敬い、同時に自分も敬う行為だと言えるのではないでしょうか。

 

皆さん、どうぞ両祖様のお示しになられたご供養の心を忘れずに、日々のご供養をお務め下さい。

参考文献『正法眼蔵 供養諸仏』『十種疑滞』

 春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえてすずしかりけり



 子供が遊んでいる。庭で遊んでいる。春には花と戯れ、夏にはプールに濡れ、秋には虫を追いかけ、冬には雪に跳ねる。小さな庭が遊園地や海水浴場や高原に見えている。懐かしさに溜息し未来予測に一喜一憂する大人には見えない世界だ。だが、今だけに生きている子供にははっきりと見える。


 「春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえてすずしかりけり」
道元禅師の有名な和歌がある。「すずしかりけり」は「心地よいものだ」と訳せようか。

 
春の花は名月に嫉妬しない。夏の鳥がさえずるのは雪が恋しいからではない。春には春の命がそこを唯一の世界として笑い、夏には夏の命がそこを唯一の世界として歌う。秋も冬も同じだ。季節は巡り自然は折々異なる姿を見せる。どれも他の季節に代えられないかけがえのない風景だ。過去未来の姿は同時に決して現れない。だから比較しようがない。現れるのであればそれは私達の物足りようとする心が生み出した幻影だ。その心を離れれば、春夏秋冬どこを切り取っても比較しえない絶対の美しさがあると気付く筈だ。今この時こそ「すずしかりけり」だと気付く筈だ。


 私達もそうだ。誰も他に代えられないかけがえのない人生を生きている。どの瞬間もたった一つの命が輝いている。しかし理想の過去や都合のよい未来に心を奪われて、生きられるは今ここしかない事実を見失っていないか。今の自分が生きる他ない命、何者にも比較できない絶対の命、例えどうであろうとも「すずしかりけり」の命を持つことを。


 子供は難しいことは解らないだろう。しかし大人と違い過去や未来に心を囚われない。自分に与えられているのは今しかないことを本能で知っている。


 大人は子供と違い過去に意味を持たせ未来を紡ぎ出す力を持っている。それ故に心が揺れ動く時、過去も未来も揺れ動く。不安の大波に揺られる時は子供時代を思い出そう。今という錨を下ろそう。その時波は消え「すずしかりけり」の蒼海に遊べるだろう。

思いを手放し自己との絆を紡ぐ

人間関係で苦しんでいませんか。他者とではなく自己との間で。

私達は勝手な物差しで世界を測り、自惚れ卑下し自らを溺愛し嫌悪します。思いに追い立てられブレ続け大変付き合いにくいのが自己です。しかし人間には母子のように損得好悪を超えて慈しみ合う関係もあります。どう思おうとも自己の命は自己が生きる他ありません。その事実に立ち返れば、自己とはかけがえのない何とも愛おしい存在です。他者との真の絆が恩讐の彼方に結ばれるのであれば、自己との本当の絆も思いを超えた所に紡がれるはずです。

坐禅は思いを手放した姿、自己との最も親しい付き合い方、その実物です